東京大学大学院総合文化研究科 藤垣裕子 教授 インタビュー

(特活)国際理解教育センター
日立環境財団プロジェクトチーム
聞き取り調査

実施日時2011年7月22日 午後2時から午後3時10分。
対象東京大学大学院総合文化研究科 藤垣裕子 教授
聞き取り調査者角田尚子


1. 現在の日本社会におけるリスクコミュニケーションについて、何が課題だと思われますか。

今回の放射線被ばくについて、専門家ごとに言うことが違っているという事態は、いくつかの背景があります。
・安全基準の参考レベルを出しているICRPも、緊急時と中長期とでは値が違う。
・ネットメディアとマスメディアとでは情報が違う。
など、判断の目的も、情報源も多様。

被ばくの安全基準については、人間の健康に関することなので、コホート研究のような実証研究、実験ができない。そのために、過去のデータ、広島・長崎の被爆者の疫学データ、核実験(ビキニ、マリランガ)、原子力事故(チェルノブイリ、パロマレス他)など、経験値からわかることから探るしかない。結果として、グレーゾーンがとても広い問題です。
そのグレーゾーンのどちらの側をとるのかは、どの専門分野かというよりは、それぞれの専門家の価値観なのだと思います。そして、どの安全基準を社会的に採用すべきかは、この場合、専門家が決められる問題ではありません。
同じ専門分野の中でも、意見の不一致があります。不一致がある方が、科学としてはふつうの姿です。

例えば、これはイギリスの教科書 ですが、高校生を対象として、「科学者の意見はいつでも一つに定まるわけではない」ことを教えています。(p.90-91 ideas about sicence)
一方で、日本では、教科書もいつでも答えが1つに定まるものとして理科を教えています。そして、それが入試で試されるのです。それが一般の人々の専門知に対する過大な期待につながっているのではないでしょうか。科学的なリテラシーの大切さだけでなく、どういう科学観を持っているかということも関わってくるのだと思います。
しかし、今回の原子力事故や報道で、我々が学んだこともあるのではないでしょうか。専門家なんて当てにならない、自分で判断しなければだめなんだ、ということが広く共有されてきたと思います。

科学技術社会というのは、個人に判断がまかされる。個人が科学リテラシーをもって、自分で判断する。こどもには、大きくなったらそういう判断が求められるようになるのだよ、だから理科を勉強するんだよ、と説いてあげる。

GCSE Science Higherの構造を見てみると、生物学(B), 化学(C), 物理学(P)などの分野ごとに、例えば、生物であれば「遺伝子操作」の問題、化学であれば「食品添加物」の問題などのように、日常生活の中にある科学の問題として、テーマを取り上げています。アプローチの仕方は、全編が科学のリスクについてのようなものです。
自分で情報を集めて、考え、判断する、きびしさがあります。日本の受け身な学びではないですね。

2. 日本社会の状況に対して、貴団体・組織がめざす貢献は何ですか?

「科学はいつでも厳格な答えを出してくれる」という思い込みによって、これまで、日本政府が対応を誤って来た問題がいくつかあります。水俣、薬害エイズ、そして狂牛病などです。厳格な科学的証明がないと対策がとれないという姿勢によって、被害を拡大しました。水俣病など、そのチッソの排水との因果関係が最終的に確定したのは2002年のはずです。発生してから50年以上たって立証された。対策のないまま患者が増える。「確実で厳密な科学的知見がでるまで原因特定・患者認定をしない」という立場がもたらした結果です。
大切なことは、確実で厳密な知見がでていなくても、今ある知見で最適なことを行うということです。そして、あとで確実で厳密な知見がでてきたあとに、そのときにまた最適なことをすればいいのだと思います。諫早湾の干拓がいい例ですが、計画ができたのが1960年代、その時最適だと考えたことがいまの時代では最適ではない。とすれば、修整すればよい。いまの時代、環境などの配慮が高まった時代における最適は違っていい。「まちがいでした」と謝って変えればいいことです。こういう考え方をadaptive-management(適応的管理)といいます。
以上のように、科学に柔軟な科学観が必要なように、政策も柔軟な政策観が必要です。
日本には、走り出したら止められない、慣性の法則のようなものが強く働くらしいですね。いまの状況を太平洋戦争末期の国民全力戦に突入していくのを止められなかった頃に似ているという人もいるらしいですね。

3. これまでの貴団体・組織の実践から、学んだこと、今後に活かしたいことは何ですか?

大学院生を対象に「科学技術インタープリター養成プログラム」 というのをやっています。理学系と工学系の大学院生を10名ほど集めて、「社会とコミュニケーションする」ことを目的に実施しています。しかし、実際には、自分たち同士のコミュニケーション、つまり専門家の卵同士のコミュニケーションがまずできないといけないねということになるのです。科学者となる人の科学リテラシーをどう育てるかという課題に取り組んでいるということです。
学部の3-4年生を対象にも「異分野交流」に取りくもうと計画しています。
科学における異分野理解をどの段階で行うかは難しい判断です。
学部生がいいのか、大学院生がいいのか、助手になった時がいいのか。
異分野との交流は、迷いを生じさせます。感受性の鋭い人は、そのために、迷ってしまって、遠回りになってしまうこともあるかもしれない。しかし、それは決して無駄にはならないと思います。
ただ、頭の固い人は、そのままの傾向もあります。
「科学者の社会的リテラシー」のためのトレーニングとしては、「自分の研究が社会の文脈におかれた時の意味」を考えてみるように、と言っています。例えば、遺伝子組み換えの研究は、科学の最先端の研究だと思って取り組んでいるのですが、一般の人は専門家とは異なる意見をもっている。彼らは「知らないから不安」なのではなくて、専門家とは違う判断基準や知恵を持っている。
よく科学者は「欠如モデル」で一般の人を見るのですが、それは違います。「欠如モデル」というのは、空っぽなコップだと人のことを考え、そこにどんどん知識を注ぎ込むようにして伝えようとすることです。(注2の本に紹介している)
それに対する反証として、一般の人が、コップ一杯の知識を得ても、科学者と同じ判断になるわけではないことを示したものもあります。彼らの持つ「恐れ」は専門家とは違うのです。

一度、このような内容のことを原子力学会に投稿したことがありますが、「痛みをもって厳しく原子力と科学コミュニケーションを捉えているのは、この原稿だけだ。」というような反響がありました。

4. 今回わたしたちが開発しようとしている教材および人材育成プログラムについて、ご提案などございますか。

さきほど紹介したイギリスの教科書の一章の終わりごとにまとめられている「考えるための問い」などは参考になるのではないでしょうか。
そして、「欠如モデル」から自由になること。ですね。

5. 教科書をつくる際に、ガイドラインの検討も同時に行ないたいと思います。何か、参考にすればと思われるガイドラインはございますか?

大学院生がイギリスと日本の教科書について比較研究をしたことがありました。
まず、「科学はどんどん書き変わる」ことを前提に科学的な力をつけることがイギリスの教科書の明確な目標です。それに対して、日本の教科書には明確な目標がない。あたかも「欠如モデル」のように、生徒の空っぽなコップを知識で満たしてやろうとしているだけのような教科書なのです。
例えば、応用問題にそれが現れています。日本の教科書では物理Ⅱで放射能について学んだ後、「1gのラジウムが、0.25gまでに半減する時期を計算しなさい」となっている。それに対し、イギリスの教科書は「ロンドンからオーストラリアに出張します。あなたの被曝量はどれだけになりますか」という問題が載っています。とても日常に即した問いで、実際的です。
多少なりとも放射線被曝は、飛行機に乗ることであがります。だからこそ、機長や乗務員には乗務時間規定があるのですけれどね。将来、自分が出張することがあるかもしれない。18時間のフライトである。被ばくは避けられない。それでどうするか、と具体的です。

日本における教科書のためのガイドラインや明確な目標の設定ですが、審議会などに入っても、一人の意見では、全体を変えられるところまで行かないようですね。

専門家が市民性を発揮する、一市民として発信するというのは、今回の3.11をきっかけによく見られたと思います。東大柏キャンパスの研究者も、柏がホットスポットになって、活発に発言しました。岩波書店の雑誌『科学』9月号で対談している方もそうです。
しかし、政府の方針が「原発推進」である以上、それに反対する意見を言い続けることは、文科省からの予算配分に響くかもしれない。と考えてしまうと、一市民としての発言を続けることは難しくなるのかもしれませんね。そういう意味では、文科省の予算の及ぶところ、専門家はすべて「金で買われている」そして、市民的発言を封じられているとすれば、そのような予算の決定の仕方も変えなければ、専門家の市民性や公共性は変わらないのではないでしょうか。

4月21日の朝日新聞にのった記事には反響が多くありました。「市民が測定する」「オランダとアメリカを比較して、堤防の高さを議会で決めるオランダと専門家が決めるアメリカ、どちらが被害に強いか」などの論点を含んでいます。
安全基準を決めるのは市民です。

【ご紹介いただいた参考資料】
岩波書店『科学』9月号
『労働科学』11月号
『「フクシマ論」』開沼博、青土社
GCSE Science Higher, 21st Century Science, Oxford 
『科学コミュニケーション論』
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by focusonrisk | 2011-07-29 18:56 | 聞き取り調査